こんにちは、倉敷市北畝の歩実塾です。
飛鳥時代は、有名な逸話が多い時代ですが、
多くは『日本書紀』など後に編まれた記録に頼っています。
年代順にたどりながら、
「記録にあること」と「断定できないこと」を分けて見ていきましょう。
物部氏と蘇我氏:仏教をめぐる争いの本当の意味
6世紀の日本で力を持っていたのが、
軍事や祭祀に関わる物部氏(もののべし)と、
財政や外交、渡来系との繋がりで勢力を伸ばした蘇我氏(そがし)です。
対立の象徴が、百済から伝わった仏教を受け入れるかどうかでした。
蘇我稲目が受け入れを主張したのに対し、
物部尾輿らは反対したと『日本書紀』に記されています。
仏教をめぐる争いは、豪族同士の政治闘争でもあった
当時は宗教と政治が深く結びついていたため、
新しい神仏を認めることは国のあり方や豪族の立場に関わる大問題だったのです。
また、単なる宗教対立だけでなく、
豪族同士の勢力争いや外交方針の違いなど複数の要因がありました。
587年、蘇我馬子(そが の うまこ)は物部守屋(もののべ の もりや)を倒して物部氏の本宗家を滅ぼし、
新しい文化を受け入れることで政治的優位を確立しました。
推古天皇と聖徳太子:女性天皇と有力豪族が支えた政治
592年に即位した推古天皇は、歴史上確認できる最初の女性天皇です。
そのもとで政治や外交を担ったのが、厩戸皇子(うまやとのおうじ/うまやどのおうじ)とも呼ばれる聖徳太子でした。
ただし、太子一人で政治を動かしたわけではなく、
強い影響力を持つ蘇我馬子を含めた天皇・皇族・有力豪族の関係の中で政治が進められました。
聖徳太子の有名なエピソード
『日本書紀』の伝説です。
事実かは分かりませんが、
複雑な意見をまとめて人々を納得させる理想の政治家像が重ねられていたと考えられます。
607年の遣隋使で隋の皇帝へ送ったとされる国書の言葉です。
中国中心の国際秩序の中で、
日本側が独自の君主を掲げて立場を示そうとした外交姿勢がうかがえます。
栄華を極めた蘇我氏:甘樫丘の「宮門」と深まる反発
馬子の子・蝦夷(えみし)、孫の入鹿(いるか)の時代、
蘇我氏の権力はさらに強まりました。
『日本書紀』によると、二人は甘樫丘(あまかしのおか)に邸宅を構え「宮門(みかど)」と呼ばせたとされ、
天皇の権威を脅かすほどの力を持っていたと考えられます。
強大な一族にも、反発する人々がいた
しかし、強大な権力集中には反発も生まれました。
後に天智天皇となる中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)と、藤原氏の祖となる中臣鎌足(なかとみ の かまたり)は、
蹴鞠をきっかけに親しくなり、
協力して蘇我氏の政治的優位を覆そうと動きます。
645年「乙巳の変(いっしのへん)」:宮廷で起きた衝撃の大事件
645年、宮廷で朝鮮半島からの使者に関する儀式が行われている最中、
中大兄皇子らが蘇我入鹿を襲って倒しました(乙巳の変)。
入鹿が倒された翌日、父・蝦夷も追い詰められた
翌日、追いつめられた父の蝦夷は邸宅に火を放ち自害します。
このとき、蘇我氏が所蔵していた歴史書『天皇記』『国記』も焼失しました(『国記』一部の持ち出し伝承あり)。
もし記録が多く残っていれば、古代日本の政治や社会がより詳しく分かっていたかもしれません。
乙巳の変の後、日本はどう変わったのか?
事件後、天皇中心の政治を目指す改革(大化の改新)が進められました。
ただし、乙巳の変そのものと、
その後に長い時間をかけて進んだ改革は区別して考える必要があります。
事件が起きたからといって、翌日から国の仕組みが一変したわけではありません。
社会は多くの人の利害が絡み合いながら少しずつ変化していきました。
歩実塾から:歴史は「人物名」ではなく、人と人との関係で理解する
歴史を覚えるとき、年号や人物名だけを暗記すると、出来事はばらばらに見えます。
しかし、
「なぜ対立したのか」
「誰が協力したのか」
「その結果、誰の立場が変わったのか」と考えると、
歴史は一つの物語としてつながっていきます。
そして、伝説として語られる話と、
史料から確認できる事実を区別することも大切です。
歴史を学ぶことは、過去の人々の考え方を想像しながら、
根拠をもとに物事を考える練習でもあるのです。
飛鳥時代:広義には、難波宮や飛鳥に宮都が置かれていた崇峻天皇5年(592年(ただし旧暦12月8日なので、西暦に換算すると593年))から和銅3年(710年)にかけての118年間を指す。狭義には、聖徳太子が摂政になった推古天皇元年(593年)から藤原京への遷都が完了した持統天皇8年(694年)にかけての101年間、または推古天皇元年(593年)から和銅3年(710年)にかけての117年間を指す。(Wikipediaより)