無料体験はこちら

LINEで友だち追加

こんにちは、倉敷市北畝の歩実塾です。

金色に輝く金閣を建てた足利義満。

その孫の時代に、京都が約11年も戦場になった応仁の乱。

同じ室町幕府の中で、何が変わったのでしょうか。

義満、山名宗全、細川勝元の3人をつないで、たどってみます。

栄華の入り口:義満と南北朝の合一

義満は1358年、第2代将軍・足利義詮(あしかが よしあきら)の子として生まれ、

父の死で、わずか11歳で第3代将軍になりました。

幼い将軍を支えたのは、管領の細川頼之です。

意外なのは、3歳のとき(1361年)に、

南朝方の軍勢が京都に攻め込み、従者に連れられて避難した経験があることです。

のちに天下に影響力を持つ人物も、幼いころは戦乱から逃げていたのです。

成長した義満は、有力な守護大名を抑えて権力を強め、

1392年、約60年続いた京都の北朝と吉野の南朝の対立を終わらせました。

金閣は、3つの文化の組み合わせ

義満は1397年ごろから、京都の北山に山荘「北山殿」を造営しました。

その中心が金閣です。

3つの階は、それぞれ造りが違います。

1階は公家の住宅の寝殿造、

2階は武家住宅の様式、

3階は禅宗寺院の仏殿を思わせる造りです。

2階と3階には金箔が張られますが、1階には張られていません。

公家、武家、仏教という異なる文化を一つの建物にまとめた、権力の象徴でもありました。

「日本国王」と勘合貿易

1401年、義満は明に使節を送り、

のちに明の皇帝から「日本国王」に冊封されます。

明は、周辺国の君主を皇帝が認める外交の仕組みを持っており、

義満は貿易のため、これを利用しました。

日本国内には、抵抗を感じる人もいたとされます。

貿易では、倭寇と区別するため、

二つに割った札を照合する「勘合(かんごう)」が使われ、

のちに「勘合貿易」と呼ばれました。

義満の死後、なぜ弱くなったのか

義満は1408年に亡くなります。

強い政治力を持つ人物がいなくなり、

有力大名や幕府内部の勢力関係は複雑になりました。

将軍の権威は弱まり、守護大名の力が大きくなっていきます。

宗全と勝元:最初は敵ではなかった

山名宗全(やまな そうぜん / もちとよ)は1404年生まれ。

本名は山名持豊で、出家して宗全と名乗りました。

京都市の紹介によると、赤ら顔だったため「赤入道」とも呼ばれました。

応仁の乱で西軍を率いて京都の西側に本陣を置き、

その一帯が、のちに「西陣」と呼ばれたと伝えられます。

細川勝元(ほそかわ かつもと)は1430年生まれで、管領を務める名門の出身です。

政治だけでなく、文化にも関心を持っていました。

2人は最初から敵同士ではなく、幕府内の政変では協力することもありました。

しかし、将軍家の後継ぎ問題や、有力大名の家督争いをめぐって、立場が分かれていきます。

応仁の乱(おうにんのらん)のきっかけ

当時の将軍・足利義政には男子が生まれず、

出家していた弟の義視(よしみ)を還俗させて後継者にしようとしました。

ところが、正室の日野富子に男子(のちの義尚:よしひさ)が生まれます。

義視を支えたのが勝元、義尚を支えたのが宗全でした。

ただし、富子と宗全が最初から一体で戦争を計画したという単純な話ではなく、

将軍家の問題に、各大名の政治的な思惑が重なっていったのです。

さらに、

畠山義就(はたけやま よしひろ/よしなり)と畠山政長(まさなが)の家督争いも加わり、

宗全は義就を、勝元は政長を支援しました。

1467年1月18日、京都の上御霊神社付近で、政長と義就の戦いが起こります。

これが最初の合戦とされます。

同年5月には、京都で全面的な戦闘が始まりました。

勝者のいない、長い戦い

1473年、宗全と勝元は相次いで亡くなりますが、戦乱は1477年まで続きました。

京都は大きな被害を受け、幕府の権威はさらに弱まり、

各地で戦国大名が力をつけていき、戦国時代への移行は少しずつ進みました。

三人の人物から見える、室町時代の大きな変化

義満の時代には、将軍が有力大名を抑え、幕府の権威を高めていました。

しかし、その後の時代には、将軍の力が弱まり、

有力大名同士の対立を抑えきれなくなっていきます。

そして、応仁の乱によって京都は荒廃し、各地では戦国大名が力をつけていきました。

金閣の輝きから、京都を焼いた応仁の乱へ。

歴史は、強いリーダーがつくった仕組みが、

その後の時代にどのように変化していくのかを教えてくれます。

人物の名前や戦いの年号を覚えるだけでなく、

「なぜその時代は栄え、なぜ次の時代には変化したのか」と考えてみると、

歴史はもっと面白くなります。

室町時代は、広義では足利尊氏が建武式目を制定した1336年または征夷大将軍に補任された1338年から、15代将軍義昭が織田信長によって京都から追放される1573年(元亀4年)までの「室町幕府(足利将軍家)が存在した時代(1336年 – 1573年)」を指す。(中略)狭義では南北朝合一(1392年)までを南北朝時代、応仁の乱(1467年、応仁元年)または明応の政変(1493年)以後の時代を戦国時代と区分して、その間の75年間(1392年 – 1467年)から100年間(1392年 – 1493年)を室町時代と区分する場合もある。(Wikipediaより一部改編)

本記事では学習のし易さから、狭義を採用しています。

access アクセス

岡山県倉敷市北畝2-3-45

  <駐車場のご案内>

contact お問い合わせ

    • お問い合わせにつきましては、順次対応させていただいております。質問によっては回答までに1週間程度お時間を頂戴する場合やお電話でのご対応をお願いすることがございます。Eメールでの回答は、お問い合わせいただいたお客さまの特定のご質問にお答えするものです。当社の許可なく、回答内容の一部分もしくは全体を転用、二次利用し、また当該お客さま以外に開示することは固くお断りいたします。
    • お客さまのメール設定で、着信制御をされている場合、当社からの返信が届かない場合がございます。あらかじめご了承ください。
    • お問い合わせいただきましたお客さまの個人情報は、以下の目的のために利用いたします。

      お問い合わせに対する対応・回答のため

      お問い合わせに対する対応・回答のために必要なお客さまとの連携・コミュニケーションのため

    • お問い合わせ内容によっては、お問い合わせ内容に関連のある社内の担当者より回答させていただく場合があります。あらかじめご了承ください。
    • お電話でお答えする場合もございますので、あらかじめご了承ください。
    • なお、個人情報の取り扱いにつきましては、プライバシーポリシーをご覧ください。

    上記の内容に同意いただけましたら、下記の項目を入力し、
    「同意する」にチェックをつけて送信してください。

    [honeypot honeypot-137]