江戸時代:杉田玄白から学ぶ「悪食」を超える生き方
私は最近、古人の言葉にふと立ち止まり、そこから自分の心が揺さぶられることがあります。江戸時代の蘭学医、杉田玄白の名言のひとつ――「飲と食とは度を過すべからず」――この言葉を読み返して、私は“悪食”という言葉の重みを改めて考えました。
子ども時代の私と「食」の姿
学生時代、私は「遊び」「運動」「バイク」「ラジコン」に心を奪われ、食事をおろそかにした日々がありました。
朝が遅れ、夜型になり、食べ物もジャンクフードばかり…そんな生活のなかで、「お腹が満たされればいい」という思いがいつのまにか常態化していました。
しかし、杉田玄白は「正物に非らざれば、苟しくも食すべからず(つまり、安心できるものを選びなさい)」とも言っています。
その言葉に触れたとき、私は「食べること=悪食」になりかけていた自分を思い出しました。量だけを追い、質を選ばず、味を追い、満たされない心を埋めようとしていたのです。
杉田玄白の“悪食を戒める視点”
玄白は、養生のための戒め『養生七不可』の中で「飲と食とは度を過すべからず」と記しています。
この言葉の裏には、「ただむさぼるな」「質を見よ」「心と体を整えよ」という深い思いが込められていると感じます。
たとえば、“悪食”とは単に食べすぎることだけでなく、「流されるままに食べる」「考えずに口に入れる」「食べることで埋めようとする」という心の在り方も含まれているのではないでしょうか。
そして玄白が生涯を通して示したのは、「自分の体に、心に問う」という姿勢でした。
食と学びの関係──塾長としての視点
私が塾を運営する中で、子どもたちへの指導だけでなく、生活習慣が学びに及ぼす影響を感じることがあります。
「夜遅くまでゲームをして、朝起きられない」
「お腹がグーッと空いたら、何か手早く食べて終わりにする」
そんな生活では、知識を詰め込む前に、体と心が疲れてしまう。
玄白の言葉を借りるなら、まず「質のある食」を、「整った体と心」を、そして「自分で選ぶ習慣」を育てることが大きな学びの基盤になる。
子どもたちに伝えたいのです。
「食べる」とは単にお腹を満たすことではない。
「学ぶ」とはただ知識を詰め込むことではない。
どちらも「選び、味わい、自分で成長を感じる」こと。
自分らしく輝ける力を育てるために
玄白の言葉から学んだことは、
**「悪食=思考停止・快楽優先・無反省」**を超えて、
**「選択的な食=意識・反省・成長」**へと変えることです。
子どもたちにとって、勉強だけでなく、心の成長も育む教室とは、
悪食”になりがちな日常から抜け出し、
「どんな環境でも、自分らしく輝ける力」を培う場です。
私たち大人もまた、玄白の名言を胸に、日々の食と学びを整え、
子どもたちと共に歩んでいきたいと願っています。